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2022年のNHK大河ドラマ(第61作)は「鎌倉殿の13人」主演は小栗旬さん。第38話”時を継ぐ者”と第39話”穏やかな一日”のあらすじ。 [ドラマ]







大河ドラマ 鎌倉殿の13人

2022年のNHK大河ドラマ(第61作)は
「鎌倉殿の13人」


主演は小栗旬さん。
脚本は三谷幸喜さん。
大河ドラマの脚本は「新選組!」(2004年)「真田丸」(2016年)と3作目。
語りは長澤まさみさん。

華やかな源平合戦、その後の鎌倉幕府誕生を背景に
権力の座を巡る男たち女たちの駆け引き…
源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男・二代執権・北条義時。
野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。
新都鎌倉を舞台に繰り広げられる、パワーゲーム。
義時は、どんなカードを切っていくのか…
三谷幸喜さんが贈る予測不能エンターテインメント!
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。
だが、流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、
運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。
北条一門はこの無謀な大博打に乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、
遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。
だがその絶頂の時、彼は謎の死を遂げた。
偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。
”飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。
将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵と取る。
源氏の正統が途絶えた時、北条氏は幕府の頂点にいた。
都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。
武家政権の命運を賭け、義時は最後決戦に挑んだ…。

第1話の視聴率は17.3%
第2話は14.7%
第3話は16.2%
第4話は15.4%
第5話は13.4%
第6話は13.7%
第7話は14.4%
第8話は13.7%
第9話は14.0%
第10話は13.6%
第11話は13.5%
第12話は13.1%
第13話は12.9%
第14話は12.1%
第15話は12.9%
第16話は12.9%
第17話は12.5%
第18話は12.7%
第19話は13.2%
第20話は12.8%
第21話は13.2%
第22話は12.9%
第23話は13.3%
第24話は12.0%
第25話は12.2%
第26話は12.9%
第27話は11.7%
第28話は12.9%
第29話は11.9%
第30話は11.4%
第31話は12.1%
第32話は11.8%
第33話は10.2%
第34話は11.9%
第35話は11.2%
第36話は12.4%
第37話は12.6%
第38話は?

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第38話”時を継ぐ者”のあらすじ。

伊豆の小豪族に過ぎなかった男。
二十五年かけて築いた地位が、
今まさに崩れ去ろうとしている。
その間、わずかひと月。




激しさを増す北条親子による主導権争い。
北条時政とりくは、三浦義村に命じて源実朝を
屋敷へと連れ込み、鎌倉殿の座を娘婿・平賀朝雅へ譲るように迫る。
起請文を書いてくれと鎌倉殿に迫る時政。
書けないという鎌倉殿。

対する義時は、泰時、時房、八田知家らを引き連れ、時政の屋敷を包囲。
攻め込む機会を慎重に見定めていた。
鎌倉を守るためなら父も子もないと泰時、時房に話す義時。
時政の命だけはという泰時、時房に八田は
親だからと言って許せば御家人全てを敵に回すことに
なるのだと話す。
構うことはねぇ、首をはねちまえと義時に言う八田。

時政を説得に来たのは義時に頼まれてやってきた三浦義村。
りくに平賀朝雅ときくを頼って京へ行けという時政。
義時らに囲まれている時政の館から
使用人たちと一緒に逃げる算段をする。
お前が無事逃げ延びたら鎌倉殿を引き渡し降参する。
小四郎は親思いじゃ、頭を丸めて手をついて謝ったら
きっと許してくれるさ。

張り詰めた空気が鎌倉を覆う中、政子。
その政子に夫は死ぬつもりでいますとりく。
この度のことを企んだのはすべて私。
四郎殿(時政)は私の言葉に従っただけ、悪いのは私です。
政子はりくの思いを受け小四郎(義時)に父上を助けてあげてと頼みに来る。
親殺しの汚名を受けても良いのですか?


その頃、時政は鎌倉殿に謝る。
いずれ頼朝様を超える鎌倉殿となられまする。
と言い和田に鎌倉殿を屋敷から連れ出してくれと頼む。
じいはこないのか?
ここでお別れでござる。
来てくれ。
首をふる時政。
小四郎に伝えてくれ、あとは託したと和田に。
北条を鎌倉を引っ張っていくのはお前だと。
承知つかまつった。

時政は自害しようとした時、和田が止める。
息子でなくて悪かったな。

時政は名越の館、りくは御所に押し込められていた。
鎌倉殿から時政の処分を軽くしてやってくれと頼まれた義時。
私は全てを忘れようと思うと義時に頭を下げる実朝。
私が請うておるのだ。

文官・大江広元らと時政の処分について話し合う義時。
梶原景時、比企能員、畠山重忠、これまで謀反を
企んだ者は皆、討ち取られておる。
北条殿だけがなぜ許されるのか、異を唱える者も
出てくるでしょうと大江。
三善は鎌倉殿の意向を無視するわけにはと。
二階堂は厳罰に処すべきだと。
時政は伊豆へ。
処分を言い渡しに義時は頭を剃った父・時政に。
この二人のシーンが最高に良かったですね。
父上、小四郎は無念にございます。
父上にはこの先もずっとそばにいてほしかった。
頼朝様がおつくりになられた鎌倉を
父上と共に守っていきたかった。
父上の背中を見てここまでやってまいりました。
父上は常に私の前にいる。私は…。
根性の別れにございます。
父が世を去る時、私はそばにいられません、
父の手を…握ってやることができません。
あなたがその機会を奪った。お恨み申し上げます。
涙ながらに時政に話す義時。
セリフ、演出、素晴らしかったですね。
実際に心に思っていても息子からはなかなか
父親に言葉に出しては言わないと思うが。



元久2年閏7月20日。
初代執権北条時政が鎌倉を去る。
彼が戻って来ることは二度とない。

義時はトウにりくの暗殺を命じる。
政子と美衣は別れの挨拶にりくのもとへ。
政子は義母上がそばにいてくれて父は
とても幸せだったと思いますと礼を言う。
思い出話をする3人。
夕餉を持ってくるトウ。
隙を見て殺そうとするトウ。
義村がりくを殺そうとしているのを見抜いて…


私を殺そうとしたでしょとりくは義時に。
安心なさい、私はもうあなたのお父上をたきつけたりしないわ。
悔しい、もう少しでてっぺんに立てたのに!
でも私の中に火はまだ消えておりませんから。
このまま坂東のド田舎で朽ち果てるなんてまっぴらごめんだわ。
あらいやだ、こんな品のない言葉使ったことなかったのに。
あなたはとっくに坂東の女子だ。
執権を継がなかったそうですね。
意気地がないのね、この親子は。
手の届くところの大きな力があるのなら奪い取りなさい。
何に遠慮しているのです。
小四郎良いですか。
あなたはそこの立つべきお人。
これは母からのはなむけ。
あらいやだ、はなむけは送る側がするものでしたね。
父上と義母上の思い、私が引き継ぎます。
これは息子からのはなむけです。



平賀朝雅を殺す!と義時。
実朝様に成り代わり、鎌倉殿の座を狙ったこと。
あの男は北条政範に毒を盛り、畠山重保に罪をなすりつけた。
それがなければ畠山は滅亡することはなく…
わが父は鎌倉を去る事もなかった。


京に届いた鎌倉からの下文を見た後白河上皇は怒り
下文を破り捨てる。
義時、調子に乗りおって…許さん!

平賀朝雅は殺される。

鎌倉では北条義時が執権時政に代わりに
鎌倉の政を取り仕切ると皆の者に宣言。
三浦義村は、己の欲のために父親を執権の座から
追い落としたのか?と聞かれ
そうではない、時政に成り代わり私はこの鎌倉を守る。
それができるのは私しかいない。
確かにその通りだ。北条義時の他に御家人たちの
筆頭になれる男を俺は知らない。
決して私利私欲で申しているのではない。


解説
放送前に出来事や背景などをかいつまんで説明する”前説”
監修:時代考証は木下竜馬さん。


逆転の一手!平賀朝雅の擁立。

「吾妻鏡」元久2年(1205)閏7月19日条によると、
牧の方(りく)が悪だくみを考え、三代鎌倉殿である源実朝を廃し、
自身の娘婿である平賀朝雅を新たな鎌倉殿に擁立しようと
しているというウワサが、鎌倉に流れたと記されている。



平賀朝雅は、源氏一門である平賀義信の子で、
母は頼朝の乳母(めのと)・比企尼の娘。
父・義信は源頼朝から重用され、朝雅は頼朝の猶子でもあった。
北条と比企との対立が深まり、建仁3年(1203)9月2日に
比企能員の乱が起こるが、前年に母が亡くなっていた朝雅は
北条に付き、討伐軍にも加わっている。
その後、京都守護として上洛した朝雅は
後鳥羽上皇から重用され、藤原定家の日記「明月記」
によると、後鳥羽上皇から伊賀国の知行国主に命じられている。
劣勢となった時政・りく夫妻にとって、
朝廷とも良好な関係を築いていた平賀朝雅は
勝負の切り札となり得る人物でした。



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第39話”穏やかな一日”のあらすじ。

いまだ源実朝と千世との間に世継ぎの誕生がなく、
気にかける政子と美衣。
義時は、御家人たちが謀反を起こさぬように
政の仕組みを改める。
しかし、傲慢なやり方に三浦義村、
和田義盛らが不満を募らせていた。
一方、泰時は慣れない和歌に悪戦苦闘し、
源仲章に相談を持ち掛ける。


そんな中、成長した公暁(寛一郎)が…。




解説。
放送前に出来事や背景などをかいつまんで説明する”前説”
監修:時代考証は木下竜馬さん。


源実朝と和歌。
建仁3年(1203)9月に鎌倉殿・征夷大将軍となった源実朝。
「吾妻鏡」によると、実朝は元久2年(1205)4月12日に
十二首の和歌を詠み、同年9月2日には後鳥羽上皇の
親撰ともいえる「新古今和歌集」を京から取り寄せた時されている。


古代・中世の人々にとって、政治と文化は
切り離すことのできない関係でした。
後鳥羽上皇の第3皇子である順徳天皇が著した
故実書「禁秘抄」には、天皇が収めるべき芸能・教養として、
第一に学問(漢籍による政道追及)、第二に音楽、
第三に和歌と挙げられている。
当時は楽器を奏でる音と和歌を詠み上げる声により
神仏と交感することで、天下泰平・国土安穏を
実現することができると考えられていたため、
為政者である貴族たちは音楽と和歌の習得に励んでいた。
実朝が和歌を詠み始めたのは、朝廷と渡り合わなければならない
幕府のトップ・鎌倉殿として、必要不可欠なことでした。


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