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2022年のNHK大河ドラマ(第61作)は「鎌倉殿の13人」主演は小栗旬さん。第40話”罠と罠”と第41話”義盛、お前に罪はない”のあらすじ。 [ドラマ]







大河ドラマ 鎌倉殿の13人

2022年のNHK大河ドラマ(第61作)は
「鎌倉殿の13人」


主演は小栗旬さん。
脚本は三谷幸喜さん。
大河ドラマの脚本は「新選組!」(2004年)「真田丸」(2016年)と3作目。
語りは長澤まさみさん。

華やかな源平合戦、その後の鎌倉幕府誕生を背景に
権力の座を巡る男たち女たちの駆け引き…
源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男・二代執権・北条義時。
野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。
新都鎌倉を舞台に繰り広げられる、パワーゲーム。
義時は、どんなカードを切っていくのか…
三谷幸喜さんが贈る予測不能エンターテインメント!
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。
だが、流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、
運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。
北条一門はこの無謀な大博打に乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、
遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。
だがその絶頂の時、彼は謎の死を遂げた。
偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。
”飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。
将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵と取る。
源氏の正統が途絶えた時、北条氏は幕府の頂点にいた。
都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。
武家政権の命運を賭け、義時は最後決戦に挑んだ…。

第1話の視聴率は17.3%
第2話は14.7%
第3話は16.2%
第4話は15.4%
第5話は13.4%
第6話は13.7%
第7話は14.4%
第8話は13.7%
第9話は14.0%
第10話は13.6%
第11話は13.5%
第12話は13.1%
第13話は12.9%
第14話は12.1%
第15話は12.9%
第16話は12.9%
第17話は12.5%
第18話は12.7%
第19話は13.2%
第20話は12.8%
第21話は13.2%
第22話は12.9%
第23話は13.3%
第24話は12.0%
第25話は12.2%
第26話は12.9%
第27話は11.7%
第28話は12.9%
第29話は11.9%
第30話は11.4%
第31話は12.1%
第32話は11.8%
第33話は10.2%
第34話は11.9%
第35話は11.2%
第36話は12.4%
第37話は12.6%
第38話は11.7%
第39話は12.0%
第40話は11.3%


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第40話”罠と罠”のあらすじ。

義時は事実上の指導者として、
将軍実朝さえ圧倒する。
その決意の固さは怯えの裏返しなのか、義時。


閑院内裏の修復を計画する後鳥羽上皇は、
鎌倉に引き受けさせるという藤原兼子(シルビア・グラブ)
進言に心を躍らせ、慈円とともに笑みを浮かべる。
一方、京からの知らせが届いた鎌倉では、
重い負担に御家人たちが反発。


源実朝からも慕われる和田義盛が旗頭となり、
八田知家らが集う状況を、義時は苦々しく思っていた。
そんな中、信濃で一つの事件が起こり…。
信濃の武士・泉親平(親衡)が
源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害することを計画。
未然に発覚してこの計画は防がれたが、およそ百三十人もの御家人が関与していた。
信濃は頼家の乳母夫・比企能員が勢力を及ぼしていた土地。
衝撃的だったのは、捕縛者の中に幕府の侍所別当を務める
和田義盛の息子の義直・義重と、甥の胤長が含まれていたこと。
義盛が源実朝へ直訴を行い、息子二人はただちに赦免された。
しかし、首謀者のひとりであった甥の胤長は許されず、
一族九十八人が列座する前で後ろ手に縛り上げられて
歩かされたのちに流罪となる。
これは、裁定に乗じた北条義時の義盛への挑発でした。

義村は和田から北条への寝返りに失敗。
建暦3年5月2日、鎌倉最大の激戦である和田合戦、勃発。


義時はなぜそんなにまでして人の好い和田を討ち取ろうとしたのか?
何が義時をそうさせたのか?
目を覚まさせる者はいなかったのか?

解説。
放送前に出来事や背景などをかいつまんで説明する”前説”

監修:時代考証・木下竜馬さん。



親密
源実朝×和田義盛。
源実朝は、父・頼朝と同年生まれの和田義盛と親密な関係にあった。
「吾妻鏡」建暦2年(1212)8月18日条によると、実朝は
義盛から昔話を聞くために、御所に祇候するように命じている。
また、翌3年の正月には、1日の大江広元、
2日の北条義時、3日の北条時房に次ぎ、
4日の「?飯」を義盛に努めさせた。
「?飯」とは、有力御家人が鎌倉殿と御家人たちを
饗応する行事であり、御家人の序列を表すもの。
つまり当時和田義盛は、広元、義時、時房に次ぐ
4番目の地位を占めるような有力御家人でした。
義盛が上総介の官職を望んだ時、母・政子の反対もありながら
実朝はその願いを一旦は受け入れる。
結局は後鳥羽上皇の近臣である藤原秀康が補任されたため、
義盛の願いはかないませんでしたが、二人の関係が揺らぐことはなかった。
御家人の支持を集め、実朝とも親密な義盛ら和田氏は、
義時ら北条氏にとって非常に目障りな存在でした。



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第41話”義盛、お前に罪はない”
のあらすじ。


鎌倉を守るために大江広元とも共謀し、反北条の旗頭と
なった和田義盛の転落をもくろむ義時。
戦を回避するべく源実朝と政子が奔走する中、
三浦義村、八田知家ら有力御家人は、義盛の陣営に
集い情勢を見定めていた。


そんな中、父・義盛の安否を心配する朝比奈義秀(栄信)ら
打倒北条を目指して決起。
一方、失意に暮れる泰時は…。


解説
放送前に出来事や背景などをかいつまんで説明する”前説”
監修:時代考証は木下竜馬さん。



引き金となった泉親衡の乱。
北条と和田との間で確執が深まる中、建暦3年(1213)に事件が起きた。
「吾妻鏡」2月16日条によると、信濃の武士・泉親平(親衡)が
源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害することを計画。
未然に発覚してこの計画は防がれたが、およそ百三十人もの御家人が関与していた。
信濃は頼家の乳母夫・比企能員が勢力を及ぼしていた土地。


衝撃的だったのは、捕縛者の中に幕府の侍所別当を務める
和田義盛の息子の義直・義重と、甥の胤長が含まれていたこと。
義盛が源実朝へ直訴を行い、息子二人はただちに赦免された。
しかし、首謀者のひとりであった甥の胤長は許されず、
一族九十八人が列座する前で後ろ手に縛り上げられて
歩かされたのちに流罪となる。
これは、裁定に乗じた北条義時の義盛への挑発でした。
痴辱を受けた義盛らはこれを境に御所への出資をやめてしまう。
そして、その後も義時から執拗に挑発され続けた和田氏は、
同年5月2日、ついに義時打倒のため挙兵した。
ちなみに、泉親衡については史料がほとんどなく、
逃亡後の消息は分かっていない。



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