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2022年のNHK大河ドラマ(第61作)は「鎌倉殿の13人」主演は小栗旬さん。第31話”諦めの悪い男”と第32話”災いの種”のあらすじ。 [ドラマ]







大河ドラマ 鎌倉殿の13人

2022年のNHK大河ドラマ(第61作
)は
「鎌倉殿の13人」
第27話は7月17日放送です。


主演は小栗旬さん。
脚本は三谷幸喜さん。
大河ドラマの脚本は「新選組!」(2004年)「真田丸」(2016年)と3作目。
語りは長澤まさみさん。

華やかな源平合戦、その後の鎌倉幕府誕生を背景に
権力の座を巡る男たち女たちの駆け引き…
源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男・二代執権・北条義時。
野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。
新都鎌倉を舞台に繰り広げられる、パワーゲーム。
義時は、どんなカードを切っていくのか…
三谷幸喜さんが贈る予測不能エンターテインメント!
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。
だが、流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、
運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。
北条一門はこの無謀な大博打に乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、
遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。
だがその絶頂の時、彼は謎の死を遂げた。
偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。
”飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。
将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵と取る。
源氏の正統が途絶えた時、北条氏は幕府の頂点にいた。
都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。
武家政権の命運を賭け、義時は最後決戦に挑んだ…。

第1話の視聴率は17.3%
第2話は14.7%
第3話は16.2%
第4話は15.4%
第5話は13.4%
第6話は13.7%
第7話は14.4%
第8話は13.7%
第9話は14.0%
第10話は13.6%
第11話は13.5%
第12話は13.1%
第13話は12.9%
第14話は12.1%
第15話は12.9%
第16話は12.9%
第17話は12.5%
第18話は12.7%
第19話は13.2%
第20話は12.8%
第21話は13.2%
第22話は12.9%
第23話は13.3%
第24話は12.0%
第25話は12.2%
第26話は12.9%
第27話は11.7%
第28話は12.9%
第29話は11.9%
第30話は11.4%
第31話は12.1%


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第31話”諦めの悪い男”のあらすじ。
比企能員の乱。


初代よりはるかに若くして、
二代目は倒れた。
御家人同士の対立も、またはるかに大きい。
鎌倉に戦の匂いが、漂い始めている。


父・頼朝と同じ病に倒れた頼家。
政子は弱く産んだせいだと言い
乳母である比企道は育てた私が悪いのですと言う。


源頼家の後継者をめぐり、厳しさを増す北条と比企の争い。
比企能員はせつが産んだ頼家の長男・一幡(相澤壮太)を推し、
早々に朝廷の許しを得ようと躍起になるが、
大江広元らは取り合わない。


一方、義時は比奈に頼んで比企の動向を探り、
三浦義村にも相談を持ち掛ける。
そんな中、政子のもとに北条時政、りくが集まり…。



解説。
放送前に出来事や背景などをかいつまんで説明する”前説”
監修:時代考証は木下竜馬さん。



阿野全成の誅殺。

建仁3年(1203)6月23日、源頼家の命を受けた
13人のひとり・八田知家によって阿野全成が誅殺された。
謀反の疑いにより5月19日に身柄を拘禁された全成は、
25日に知家の所領のある常陸国に配流されていた。
”吾妻鏡”によると、全成を拘禁した翌5月20日に
頼家の命を受けた比企能員の息子・時員が、
全成の妻・阿波局(美衣)を尋問するので
身柄を引き渡すよう政子に要求し、断られたと記されている。
しかし、25日に配流されるまでの間、全成に対して
どのような審議が行われいたかについては、一切記載がない。
謀反の疑いがあってから、拘禁・配流・誅殺に至る展開は、極めて迅速。


頼朝の弟という血筋で、かつ、頼家の
弟・千幡(のちの源実朝)の養育もしていた全成は、
娘・若狭局(せつ)が産んだ一幡を頼家の後継者に推す
比企能員にとって憂慮すべき一人でした。



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第32話”災いの種”のあらすじ。

奇跡的に息を吹き返した源頼家。
しかし後鳥羽上皇のもとには頼家危篤の報が届き、
後鳥羽は考えを巡らせる。
鎌倉では、政子のもとに義時、泰時らが集まり、
新たな体制について話し合っていた。


そんな中、一人で思いにふける比奈。
一方、先を見据えるりくは時政に京との関係を
より深めるように説き、愛息・政範(中川翼)も胸を高鳴らせる。
そして、三浦義村は…。


解説
監修:時代考証は木下竜馬さん。


比企能員の乱。
建仁3年(1203年)9月2日、源頼家の乳母夫・比企能員が誅殺された。
源頼家が突如病に倒れて危篤となると、幕府は
頼家の弟・千幡(のちの源実朝)に「関西三十八か国の地頭職」、
長男・一幡に「関東二十八か国の地頭」と
「惣守護職」を分割して譲与する配置を取った。
しかし、能員は「一幡以外に地頭職を与えると
北条時政の一族に家督が奪われる」と頼家に
訴えて時政追討を許可させ、対決姿勢を鮮明にした。
これに対し、政子から急報を受けた時政は、
能員が謀反を企てようとしていると断じる。
そして御家人たちを招集し、逆に能員を追討して比企家を滅亡させた。
これが「吾妻鏡」の描く「比企能員の乱」。
しかし慈円が著した「愚管抄」には「吾妻鏡」と
異なる記述がいくつも見られ、能員が時政追討を
画策したという記述はない。
むしろこの事件を、幼い千幡の擁立を図った
北条時政のクーデターであるかのように記されている。


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