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2022年のNHK大河ドラマ(第61作)は「鎌倉殿の13人」主演は小栗旬さん第8話”いざ、鎌倉”と第9話”決戦前夜”のあらすじ。 [ドラマ]







大河ドラマ 鎌倉殿の13人

2022年のNHK大河ドラマ(第61作
)は
「鎌倉殿の13人」

主演は小栗旬さん。
脚本は三谷幸喜さん。
大河ドラマの脚本は「新選組!」(2004年)「真田丸」(2016年)と3作目。
語りは長澤まさみさん。

華やかな源平合戦、その後の鎌倉幕府誕生を背景に
権力の座を巡る男たち女たちの駆け引き…
源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男・二代執権・北条義時。
野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。
新都鎌倉を舞台に繰り広げられる、パワーゲーム。
義時は、どんなカードを切っていくのか…
三谷幸喜さんが贈る予測不能エンターテインメント!
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。
だが、流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、
運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。
北条一門はこの無謀な大博打に乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、
遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。
だがその絶頂の時、彼は謎の死を遂げた。
偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。
”飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。
将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵と取る。
源氏の正統が途絶えた時、北条氏は幕府の頂点にいた。
都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。
武家政権の命運を賭け、義時は最後決戦に挑んだ…。

第1話の視聴率は17.3%
第2話は14.7%
第3話は16.2%
第4話は15.4%
第5話は13.4%
第6話は13.7%
第7話は14.4%
第8話は13.7%


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第8話”いざ、鎌倉”のあらすじ。



政子らは伊豆山権現から逃げて秋戸郷の民家に
匿われていた。



兄・頼朝との対面を夢見て、旅する義経たち。
一方、北条義時は武田信義と味方に引き入れるため、
再び甲斐へと向かう。
父・時政が先に武田の協力を求めに甲斐に行っていたのだが…
武田は平清盛の追討軍に攻められることを恐れ
頼朝に協力すると約束する。




挙兵した源頼朝を討つため、追討軍を送る平清盛(松平健)
後白河法皇(西田敏行)は地図を広げ、丹後局(鈴木京香)らと戦況を占う。


一方、奥州をたった源義経(菅田将暉)は、
兄・頼朝との対面を夢見て歩みを進めていた。
そのころ、坂東では、上総広常(佐藤浩市)らを加え
勢いを増す頼朝が、鎌倉を目指して進軍。



頼朝の命を受けた北条義時は、武田信義(八嶋智人)を
味方に引き入れるため、再び甲斐へと向かう…。



鎌倉の大倉に館を建てるようにと頼朝。
鎌倉まで漁師の妻・お亀を呼んでいた頼朝。
そのために政子らの呼ぶのを一日遅らせるよう義時に言う。
頼朝はそんなに女好きだったのか?



NHKの公式サイトより。
放送前に出来事や背景などをかいつまんで説明する”前説”
監修時代考証・木下竜馬さん。

武蔵国の実情。
実力者である上総広常と千葉常胤を味方に加え、
房総半島を制圧した源頼朝。
父・源義朝が治めた鎌倉を目指して兵を進め、
次なる武蔵国へと入っていきます。
武蔵国は、平治の乱までは藤原信頼が知行していましたが、
乱後は平家の棟梁である平清盛の四男・知盛が国司を務めていました。
このため、武蔵国の武士の多くは、平家の家人として組織されていたのです。
畠山重忠をはじめとした武蔵国の武士団が三浦党の本城である衣笠城を攻め、
三浦義澄の父・義明を討ち取っていますが、これは
小坪合戦における重忠に対する襲撃への報復ととともに、
平家の重恩に報いるためでもありました。










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第9話“決戦前夜”のあらすじ。

ついに鎌倉入りを果たした源頼朝の一党。
敵対した平家方を捕らえるため、頼朝は
競わせるように和田義盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)を派遣。
これを知った北条義時と三浦義村は、
祖父・伊東祐親(浅野和之)と八重(新垣結衣)を救うため急ぎ伊東へ向かう。




そのころ、都を出た平家の追討軍が東海道を進軍。
甲斐では、出陣を約束した武田信義(八嶋智人)が義時の父・時政に…。



第9話放送前に出来事や背景をかいつまんで説明する”前説”
”監修”時代考証は木下竜馬さん。


源平激突!富士川の戦い。
石橋山での敗戦からわずか1カ月半で奇跡的な再起を果たし、
治承4年(1180)10月7日に鎌倉入りした源頼朝。
しかし、息つく暇もなく10月16日には再び駿河国へと出陣します。
平清盛の孫・維盛率いる平家軍が進行してきたという情報が入ったからです。


都では、頼朝の反乱を鎮圧するため、9月5日に頼朝追討の宣旨が発せられました。
清盛の命を受けた追討軍は9月22日に福原を出立し、
翌23日には京の六波羅へと入ります。
しかし、そのまま進軍せず、29日までこの地に長期逗留。
侍大将・伊藤忠清が、陰陽道の悪日とされる「十死一生日」に
六波羅に出立することを拒んだためといわれています。
石橋山での頼朝の廃線が伝えられていたため、油断もあったのかもしれません。
これが頼朝に、時間を与えることになりました。




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